昭和58年卒 大鐘 庸
昭和60年卒 増田 泰亮
8月22日、雪のついてしまったアイガーを見て登山を断念する。天候は不安定で、ここグリンデルワルトでは毎日雨、少し上の方は雪が降り、山々は冬へ向かうかのようである。駅前の郵便局から最後の装備を日本へ送る。その帰り、私はヨーロッパの山にやってきて、自分ではやれるだけやったつもりであった。しかし胸の中は敗北感と虚脱感でいっぱいであった。なぜか惨めで情けなくてしょうがなかった。大鐘先輩はどんな気持ちでいたのだろうか。
《シャモニへ》
1988年7月12日、横浜港は晴れ。ザックだけでも50kgはあるのにそれでも両手に荷物を持ち、更には大きな期待までもしょいこんで正午出航。まず船でナホトカへ。その後、昔の登山家たちがそうしたように、シベリア鉄道にのり、電車を乗り継いでヨーロッパ、フランスはシャモニへと1万3千kmの鉄道の旅である。
7月24日夕方にシャモニへ到着。雨である。キャンプ場は駅から遠く1.5kmも歩かねばならない。大荷物の私たちにはとてもこたえた。7月25日登山用品店スネルスボーツへ行き、SOSモンターニュという山岳保険や地図、EPIガスなどを購入する。7月27・28日はモンブラン登山の予定であったが天候が崩れたので28・29日とした。
《紺碧の空の下で》
7月28日シャモニを朝7時のバスでレ・ズーシュへ。その後ロープウェイに乗ってニー・デーグルへ。ここがモンブランの歩きだしである。日本人が多い。何十人もの人が歩き出す。私たちもその中を歩く。2時間でテートルース小屋。昼食をとってから2時間でグーテ小屋(3817m)へ到着。小屋のすぐ上にツェルトを張る。
翌29日は0時頃起きて食事をするが、上の天気が悪くどうしようかと悩んでいると、3時近くなって登り始める人たちがいるので、私たちも慌てて出発する。なぜか私も先輩もかかとに靴ずれができてしまいとても痛い。2時間ほどで私はばててしまい、遅々として進まなくなってしまった。バロ小屋(4362m)を越えると、天候もひどく荒れ出す。足も前に出ないし、呼吸もままならない。風が吹き飛ばす氷の粒は平手打ちの連続である。5時間40分かけてモンブラン頂上(4807m)である。視界は0に等しく、感激する間もなく慌てて下りにかかる。結局この日の最後の登頂者であった。グーテ小屋まで降りてやっと元気を取り戻しニー・デーグルの駅まで下る。
初日1500mの登り、2日目は1000m登って2500m下るという日本では考えれないようなスケールには参ってしまう。しかしそれほど疲れた様子も見せない大鐘先輩には感服してしまう。シャモニへ戻りキャンプ場でシャワーを浴ひてから町へ出て夕食と、これがまたヨーロッパなのである。(増田)
《ロジエールのキャンプ場》
私たちがキャンプしていたのは駅、すなわち町の中心部から 1.5Km程離れたロジェールのキャンプ場である。テント1張りと人間2人で1日約800円、水洗トイレ、温水シャワー、飲料水、炊事場、コインランドリーなどのことを考えると安いぐらいである。
休養の日には芝生の上でずっと寝ていたり、町まで歩いていって登山用品店(十数件ある)めぐりをしたり、食料の買い出し、そして帰りにはガイド組合の前の天気予報を見てからキャンプ場へ帰るのである。それとカフェに入ることはできたが、レストランに入ることはできなかった。メニューがまったく読めないのである。しかしセルフサービスのレストランにはよく行った。
キャンプ場での朝食は当然フランスバンである。卵とソーセージ、レタスにスープ。コーヒーはインスタントであった。夕食はまずスーパーで買い込んだものをテントの前で店をひろげて料理していた。米とスパゲッティーをよく食べた。おかずはポテトやステーキ、ハンバーグである。肉は非常に安い(日本の1/5)のである。ハンバーグを腐らせてはいけないと、大きいハンバーグをー度に5枚も食べたり、ゆでたスバゲッティーに缶のミートソースをかけようとしたら缶にはミートソースではなくミートソーススパゲッティーが入っていたりして食べきれないようなことがよくあった。それと夕食のときタ日に染まる山々の眺めは最高である。まず右奥にモンブラン、次にミディ針峰、フラン針峰にグレボン、グランシャルモ。ずっと左手にはドリュが見える。そうこうしてるうちに夜9時頃になると暗くなりシュラフにはいるのである。(増田)
《再び紺碧の空の下で》
8月5日、キャンプ場で知り合った沢田さんという人と2泊3日の予定で岩登りに行く。はじめはピラミッド・デュ・タキュルを登る予定であったが、余りにもの混雑のため歩いて15分ぐらいのところにあるアドルフ・レイに向かう。
沢田さんのりードで始まる。出だしからいきなりかぶっているので、私だけアブミで登る。大鐘先輩はすんなりと登ってくる。あまりにも難しいので私は3ピッチ目の終了点で登るのをあきらめる。大鐘先輩と沢田さんで残り3ピッチを登る。私はたたみ2畳ぐらいのテラスでセルフビレイをとり、2人が降りてくるのを待つ。鎖につながれた犬のようであるが、岩と雪しかないこのテラスに座っているといい知れぬ感動が湧いてくる。見渡せばグラン・カビュサン、ツール・ロンド、グランド・ジヨラスにシャモ二針峰群、遥か遠くにはマッターホルンらしき山も見える。見上げれば紺碧の空である。昼なのに星が透けて見えるぐらいに深い色である。岩と雪と空とのコントラストの中に自分がいるというだけで満足であった。
日もかげりかけ、寒くなり始めた頃に先輩たちが降りてきて、私もー緒にアプザイレンで降りる。翌日沢田さんは体認不調のため下山。私たちはピラミッド・デュ・タキュルを登った。翌8月7日、ミディ針峰コスミクバットレスからコスミク山積を登った後にシャモニへ戻る。(増田)
《ミディ南壁》
アルプスは、氷河の白、そそり立つ黒い岩峰、真っ青な空、3色で構成された世界。クライマーでなくともドキドキ興奮してやまない美しい世界である。
シャモニに入り2週間余り、増田と共に幸せな日々を送っている。
ミディ南壁、グランカビユサン東壁、ドリコ西壁、本と写真を見て、これらをフリークライミングで登れたらいいな、そんな気持ちで日本を発った。ラシユナルピーク、アドルフレイ、ピラミッドタキユル、いずれもルートの半分以上をジャミングで登る、シビアだがとてもすっきりしたルートだったし、何よりもこちらで知り合った沢田さんも含め、増田と共に美しいアルプスで登り、自分が実際にここにいるというだけで嬉しいものである。
そして、8月9日にミディ南壁レピュファルート、10日にはグランカビユサン東壁スイスルートにいくことになる。9日早朝のローブウェイでミディへ。そして取り付きで1時間持たされ10時に取り付く。ハンドジャムで登り始める。5本目のフリーのルートということもあり、快適にぐいぐい登れる。核心部のS字クラツクも微妙なムーブだが、増田も順調に登ってくる。日本のハーケンべた打ちのルートと違いブロテクシヨンはほとんどフレンズとナッツを自分でセットするというクリーンなクライミングである。3
ピッチ目以降もジャミングやワイドクラツクでのレイバックなど思いついたムーブで調子よく登る。しかし調子に乗り過ぎたか、どこかで右のルートに入ってしまい、何か難しいなと思いつつ、8,9ピッチ目には頂上とははずれた駅の裏側のピーク付近に出てしまった。駅か頂上へのルートを見つけようとするがだめなようである。そろそろ日も傾き、氷河が赤く染まり始めている。美しい景色なのであるが気持ちは焦るばかりである。残念だが下降することに決め、他2パーティと共にただひたすら懸垂下降をする。取り付きから氷河を登り返し、駅に着いたときは9時過ぎでスペイン人パーティらと共に駅でビバーグすることになった。
翌日の計画は中止とし、疲れた体で翌朝のロープウェイでシャモニの町へと帰った。(大鐘)
《グランドジヨラス》
その後は天気が崩れてシャモニでの登山はグランドジヨラスを残すだけとなった。8月13日イタリア側へ降りるとうって変わってとても暑い。ヤッケも山着も脱いでTシャツ1枚となる。登山口から3時間半程でジヨラス小屋に到着、小屋泊まりである。翌14日午前2時に起床、朝食後3時に出発。いきなりどべの出発であった。ルートは先行パーティのラテのおかげで迷うことはなかった。岩稜に取り付くと、大鐘先輩のルートファインディングは素晴らしく、他パーティをほとんど抜かしてしまった。その後雪のトラバースや2ピッチほどザイルを使ったりして、ウインパーピークとウォーカーピークとのコルに出る。ウォーカー稜は目の前である。午前8時20分グランドジヨラスウォーカービーク(4208m)。北壁ウオーカー稜を登ってくる人たちがいる。9時10分に名残惜しいが頂上を後にする。13時に小屋に戻り、休憩の後下山。来るときは山をローブウェイで越えてきたが、帰りはモンブラントンネルバスで帰る。夕方にはシャモニに着いた。(増田)
《マッターホルン》
名は知らすとも誰もがー度はポスターなどで見たことのあるピラミッド型で氷河に囲まれた美しい山、それがマッターホルンである。ツェルマットで名工大OB杉浦さんと合流し、昨日17日に3260mのマッターホルン基部のへルンリ小屋に泊まった。
今朝は2時半に起床、日本から持ってきた「もちラーメン」がうまい。足を痛めていた増田は登山をあきらめる。ここまでー緒にやってきたのに非常に残念である。
星が輝く夜空にマッターホルンが陰のように黒い姿を見せている。明りが2つ、どうやら先行パーティがいるらしい。気合いを入れて出発する。へルンリ稜は北東稜であり、頂上まで2,3級の岩場が連続する気の抜けないルートである。東壁側を斜上していくのがルートで、ラテで照らしながらのルートファインディングは難しい。簡単な岩登りだがスリップでもしたら大変である。今年も2人の日本人が転落死している。それにしても年輩の人や女性がガイドに連れられて楽しそうに登っているのには驚かされる。こちらのガイドの地位の高さや登山愛好家が多いのもうなずける話である。
2時間半余りで4003mのソルバイ小屋に着く。ここから少しつつ難しくなり上モズレイスラプを登り、その上から雪田、雪稜となりアイゼンをつけピッケルを持つ。6,7mの垂直の壁を固定ザイルを使って登り、赤い岩場に次々と取り付けてある固定ザイルを伝って行くと頂上直下の雪田となり、8時半に4478mのスイス側の頂上に着いた。頂稜は長さ80mでほぼ東西に延びている。東端がスイス側、西端がイタリア側頂上で、中間に鉄の十字架が立っている。360度の展望は素晴らしく、遠くにモンブランがかすんで見える。モンブラン山群の針峰群の荒々しさはなくモンテローザなどの緩やかな山波が続いている。
杉浦さんはかなり疲れているようだが登りより難しい下降をしなければならない。岩場は杉浦さんを確保して下ろし、私はクライムダウンをする。それ以外はコンテで降りることにする。ソルベイ小屋下のモスレイスラブで杉浦さんがスリップしたが確保していたので大事にいたらなかったのは幸いであった。そして2時にへルンリ小屋へ無事に降りることができた。ツェルマットへ戻る途中に何度もマッターホルンを振り返ったが、登る前とは違った美しさと壮大さを感じた。(大鏡)
《グリンデルワルトにて》
マッターホルンを登った後1日休養してからグリンデルワルトに20日に移動する。やはり移動日は雨である。宿はユースホステルにする。翌21日の天気は望めそうにないのでひとまず中止とする。杉浦さんは日程切れで下山する。インフォメーションに天気を聞きに行っても"changeble"ということで期待できない。1日中雨がばらつき、山は少々雪が積もったようである。22日、アイガーは真っ白になってしまった。2日間ぐらい天気は快復しないとのことである。
これでは冬山登山になってしまう。大鐘先輩もどうすべきか悩んでいるようだ。
「自分には難しすぎるのではないだろうか。」、「もう少し粘ってみるべきではないだろうか。」、「全年の登山シーズンは終わってしまったのではないだろうか。」いろいろな考えが頭の中をよぎった。(増田)
最後に亨回の遠征にあたり多大なるご助言及びご援助をいただきました明和山岳会のOB諸氏にこの紙面をかりて厚くお礼を申し上げます。
H12.1.23 増田 記:
当時作成した原文のまま投稿させて頂きます。この遠征は、明和高校山岳部卒業後、大鐘先輩もわたくし増田も名古屋工業大学山岳部へと入部し、大鐘先輩が4回生,私が2回生のとき「いざアルプスへ」と意気込んで行ったときの話です。ちょうど明和高校山岳部40周年記念パーティ直後に出発いたしました。覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。10年以上も前の話ですので、今思えば良くやったと言いたいですが、まだまだこれからですね。皆さんの話も聞かせてください。
大鐘先輩、またどこか行けたらいいですね。私は取り付きまでで満足(ハハハ)。
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